環境化学研究室
田中 茂 教授
 1973年4月、橋本芳一先生により、慶應義塾大学工学部(当時)応用化学科に環境化学研究室が創設され、今年で40年を迎えることになりました。 1970年に環境庁が設立され、我国の高度成長に伴い深刻な被害をもたらした環境汚染の公害問題に対して、その対策を国全体で取り組み始めた時期で、 全国の大学でも"環境化学研究室"と言った名称はめずらしく新鮮であったことを当時研究室の3期生の学生であった私は記憶しております。 その後40年を経った現在では、環境問題の重要性は国際的にも社会全体にも認識され、様々な分野で環境問題に対する研究が重点的に行われる時代となってきました。
 本年(2013年)は、橋本芳一先生定年退職後の1993年4月に環境化学研究室をバトンタッチしてから20年の節目の年となりました。この節目の年に、 公益法人大気環境学会から学術賞を受賞することになりました。これまでの20年間の「拡散スクラバー法を用いた大気環境計測技術と空気清浄技術の開発」 に関する研究成果に対する受賞であり、大変に光栄に思います(写真は授賞式の受賞講演)。
 以下にこれまで行ってきた研究内容及び成果について説明します。

第54回大気環境学会年会・学術賞受賞講演


 1993年以降、1)地球環境、2)環境計測、3)環境対策、4)酸性雨の4つの大きな分野を環境化学研究室の研究テーマに取り上げ研究を進めてきました (詳細はHPの研究内容参照)。特に、多孔質テフロンチューブを用いた拡散スクラバー法による大気中微量ガス成分の測定法に関する研究に着手し、 大気中酸性・塩基性ガス(HCl,HNO3,SO2,NH3)、アルデヒド(HCHO,CH3CHO)、窒素酸化物(NOX)、 過酸化水素(H2O2)の自動連続測定装置を開発してきました。"拡散スクラバー法"は、ガスの拡散を利用したガスの捕集法であり、 例えば、多孔質のテフロンチューブに空気を流すと空気中のガス成分は拡散し、テフロンチューブ内壁の孔を透過します。テフロンチューブの外側にガスを 吸収する水等を配置しておけば、そのままガス成分を吸収することができます。又、空気中の粒子は、ガスと異なり拡散係数が小さいので、そのまま空気の 流れと共にテフロンチューブを通過します。従いまして、シンプルな多孔質テフロンチューブを用いるだけで、粒子と分別して、空気中のガス成分のみを 捕集することができる画期的なガスの捕集法と言えます。
 そして、1997年からは、科学技術振興事業団・戦略的基礎研究プロジュクトにより、鞄津製作所と共同で開発した自動連続測定装置を沖縄、隠岐、 利尻等の離島に設置し、大気汚染ガス成分のバックグラウンド濃度を長期間自動連続測定することにより、東アジアからの越境大気汚染の実態を明らかにし、 地球大気環境の研究分野での東アジアの大気観測データを提供することに貢献できました。更に、大気中酸性・塩基性ガスの自動連続測定装置は、現在、 半導体製造のクリーンルーム内でのガスモニタリング装置として横河電機鰍ノより製品化され、本ガスモニタリング装置は、 平成12年5月に(社)空気清浄協会・技術賞を受賞致しました。 
 当環境化学研究室で開発してきました"拡散スクラバー法"を用いた新しい室内空気汚染物質の簡便な測定装置の実用化を目指して、 ガス検知管で知られている ガステック鰍ニ共同研究を行ってきました。このたび、 その研究成果が認められ、"ミニチュア拡散スクラバーによる室内空気汚染ガスの簡易測定装置"が、 第15回「中小企業優秀新技術新製品賞・優秀賞」(りそな中小企業振興財団、日刊工業新聞社主催)を受賞することとなり、グランドパレスホテルにて 受賞式が行われました(下記簡易測定装置、授賞式の写真参照)。
 有害物質が氾濫する現代社会においては、ごく低濃度でも有害性を発する物質が数多く検出されています。低濃度の有害物質について、生産・生活環境中で その実態を把握し管理していくことは"快適環境を創造する"上で必要不可欠です。そして、より多くのデータを短時間で多数得る為には、 生産・生活環境中の有害ガスの分析・測定は、簡便で経済性に優れたものであることが望まれます。 そこで、"拡散スクラバー法"を用いたシンプルな装置による簡便性・経済性に優れた多種類の有害ガス成分の簡便なモニタリング装置を開発しました。 "拡散スクラバー"をミニチュア化し、有害ガス成分をわずか1ml程度の極めて少ない溶液中に捕集することが可能となれば、旧来の比色分析でも十分に測定が行えますので、 結果的に高感度で優れた機動性を持つ新たな有害ガスの分析手法となります。従って、従来の高価で比較的大きな機器分析装置を用いてラボにおいて行っていた分析を 安価で容易に持ち運べるコンパクトなLED(発光ダイオード)簡易比色計を用いて現場で行い、現場でのリアルタイムでの有害ガスの測定が可能となりました。 今回の「中小企業優秀新技術新製品賞」の受賞を通じて、今後、様々な生産・生活現場において"ミニチュア拡散スクラバー"による簡易モニタリング装置が国内外で 広く利用され普及することが充分に期待できます。

室内空気汚染物質の簡便な測定装置授賞式
(ミニチュア拡散スクラバー、LED簡易比色計、
ミニエアポンプ)


 “拡散スクラバー法”によるガス成分の捕集は、様々なガス測定装置に応用されてきました。その一方で、ガス成分の捕集の発想を180度逆転し、 “拡散スクラバー法”によるガス捕集装置は、微量ガスの発生装置にもなることが判りました。図に示したように、多孔質テフロンチューブを内管に、 その外側にガラス管をかぶせたシンプルな“拡散スクラバー法”によるガス捕集管へのガス吸収液の代わりに、ガス成分を吸収したガス発生溶液をセットして 清浄な空気を多孔質テフロンチューブ内に流すだけで、ガス発生溶液中ガス成分が多孔質テフロンチューブの孔を透過して、ppmレベルの希薄ガスが一定濃度で 長時間発生します。スイッチオンで空気がガス発生装置に導入されると希薄ガスが簡単に発生し、スイッチオフでガスの発生はストップし、 重くて危険な高圧ガスボンベとは異なり、簡単・安全にガスの発生が扱え、様々な分野での使用が期待できます。
 本研究は、2006〜2008年の3ヵ年、科学技術振興機構(JST)の大学発ベンチャー創出推進事業「ガスボンベを用いない希薄標準ガス発生・調製技術」として発展し、 2009年には、潟Kステックから、本研究成果に基づく「ガスボンベを用いない希薄標準ガス調製装置」が製品化されました。更に、2010年4月に、本装置は、 第22回「中小企業優秀新技術新製品賞・優良賞」(りそな中小企業振興財団、日刊工業新聞社主催)を受賞しました。 写真は、「ガスボンベを用いない希薄標準ガス調製装置」を写したものです。


拡散スクラバーガス発生管の概要ガスボンベを用いない希薄標準ガス調製装置


 この様に、"拡散スクラバー法"によるガス成分の捕集の研究は、主に、環境計測技術として展開して参りましたが、並行して、"拡散スクラバー法"を用いた 有害ガス除去処理技術を応用した新しい空気清浄技術の実用化を目指して、三機工業鰍ニ共同研究を行ってきました。 その研究成果が認められ、平成13年度の「環境賞」優良賞(日立環境財団、日刊工業新聞主催、環境省後援)を受賞し、東京プリンスホテルにて 受賞式が行われました。「環境賞」は、1974年に創設され、環境保全に関する調査、研究、開発で画期的な成果を挙げたものを対象とし、 近年の「環境賞」の受賞としては、直噴ガソリンエンジン(GDI)車の開発(三菱自動車工業)、プリウス・ハイブリッドカーの開発(トヨタ自動車)等があります。 平成13年度は、無鉛はんだ材料の開発と実用化(ソニー梶j等と共に、当環境化学研究室と三機工業鰍ニで「環境賞」を受賞することができました。 「環境賞」の受賞により、拡散スクラバー法は環境計測技術としてばかりではなく、有害ガス成分の除去処理と言った空気清浄の環境対策技術として 発展することが期待できます。 室内空気汚染への社会的関心の高まりから、現在、多数の空気清浄技術の研究が行われております。 しかしながら、問題の重要性に比較して、その多くの技術は、既存の化学フィルター法、活性炭等の吸着剤による除去技術を単に転用したものが多く、 実際に有害ガスの除去能力や処理量が充分とは言えません。 一方、"拡散スクラバー法"は、空気を濾過して処理を行うフィルターや活性炭等の吸着剤とは異なり、 通気抵抗が極めて少なく、簡便な装置により連続的に大量の汚染空気を処理できます。平成14年には、文部科学省・大学発ベンチャー創出事業である "快適環境を創造する室内汚染物質の高性能浄化装置の開発"の研究プロジェクトを慶應義塾大学知的センターをマネジメント事業者、東京ダイレック鰍 共同研究企業として進めることとなりました。文部科学省・大学発ベンチャー創出事業は平成16年度で終了となりましたが、その研究成果を 2004年9月28日〜30日に東京国際フォーラムにて、経済産業省、文部科学省を主体にしたイノベーションジャパン2004において発表し、 「UBSイノベーションアワード・特別賞」を受賞いたしました。
イノベーション・ジャパン2004の展示ブース「UBSイノベーションアワード・特別賞」授賞式
2004年9月28日〜30日、東京国際フォーラム


 文部科学省・大学発ベンチャー創出事業は2004年度で終了となりましたが、その研究成果を更に発展させるために、2005年4月1日に、大学発研究開発ベンチャーである 株式会社STAC(Standard Technology for Air Cleaning)が設立されました。株式会社STAC設立後、2005年度経済産業省の中小企業・ベンチャー挑戦支援事業の 「家具・事務機器からの有害物質の放散量の計測と削減システムの研究」が採択された他、2006〜2007年には経済産業省の地域新生コンソーシアム研究開発事業 (管理法人・(財)金属系材料研究開発センター)が採択され、潟ニチカ、潟Wャパンゴアテックス、蒲ム塗装工業所と共同で、 「塗装・印刷工場から排出されるVOCの循環効率的な除去処理技術」の研究を進め、この研究成果を基にして2008年から3ヶ年の研究で環境省の環境技術開発等推進費による 「二酸化炭素を排出しない排ガス中VOCの循環効率的な除去処理技術の開発」(研究代表者:田中茂、共同研究企業:ユニチカ梶Aジャパンゴアテックス梶jが行われ、 塗装・印刷工場から排出されるトルエン、キシレン等のVOCに対する“拡散スクラバー法”を用いた図に示す除去処理装置が開発されました。

二酸化炭素を排出しない排ガス中VOCの循環効率的な除去処理システムの概略図


 現在、VOCを吸収した除去液の再生を実現するために、2012〜2014年度環境省・環境研究総合推進費補助金・研究プロジェクト 「廃有機溶剤の効率的再生処理技術の実用化(研究代表者:田中茂、共同研究企業:進和テック梶jを進めています。 様々な工場、事業所から使用済みのVOCを含む廃溶剤が産業廃棄物として排出されています。廃溶剤の多くは、燃焼して焼却処分されています。 燃焼処分すれば、二酸化炭素を排出し温暖化対策で問題となるばかりか、エネルギー・コスト面でも問題となります。3Rの観点から、廃溶剤量を減らすには、 廃溶剤を再生し再利用することが必要不可欠です。
 従来、廃溶剤の再生には加熱蒸留が用いられてきましたが、廃溶剤の再生処理能力、エネルギー・コスト面で充分とは言えず、特に、高沸点の溶剤の場合、 加熱温度が高くなり引火等の安全面でも問題があり、廃溶剤の再生は一部に限定されています。その為に、加熱温度を下げ、低温でも蒸発が可能な高分子膜分離による 真空蒸留法が用いられてきました。廃溶剤からのVOC蒸発の通過抵抗となる高分子膜を使用せずに、廃溶剤を真空容器内で噴霧し廃溶剤からのVOC蒸発速度を飛躍的に 向上させる”空気流動真空蒸発法”を開発しました。”空気流動真空蒸発法”により、膜分離の真空蒸留よりも更に効率良く溶剤の再生が可能となり、 大量に廃棄されてきた廃溶剤の削減を目指しております。

“空気流動真空蒸発法”を用いた廃溶剤中VOCの蒸発分離による溶剤再生装置の概略図


 この様に、これまで開発された“拡散スクラバー法”による有害ガス成分の除去処理技術を中核技術として、企業との共同研究を通じた産官学連携により、 多くの研究成果を生み出してきました。今後、拡散スクラバー法による空気清浄技術が、国内外で広く利用され普及し、社会に貢献することを期待しています。
 最後になりますが、 紹介させて頂いた研究成果に御関心頂き、 今後とも色々と御指導・御鞭撻頂けると幸いです。


                                             (2013年10月)
                                              慶應義塾大学理工学部
                                              応用化学科環境化学研究室
                                                 田 中 茂