慶應義塾大学 理工学部 応用化学科  高分子化学研究室

この文章は平成9年7月19日に開催された、高分子学会・高分子若手研究会(関西)の講演要旨です。米国留学から帰国して、粋がっていたところです。でも真剣に考えていたことも確かです。 

動的なシステムにおける生き残り

 

1.はじめに

 動的なシステムのなかに我々はいる。不易流行、変わらないように見えるが、常に動いている。だからこそ安定に存在できる。生きているとはこのダイナミクスそのものなのかもしれない。いずれにせよ、そのシステムの中に我々はいる。さらに我々自身の内部にも動的な安定状態にあるシステムが存在する。これらの動的なシステムにおける安定状態は頼もしくもあり、危うくもある。確実な実りをもたらし、我々に安心感を与えてくれる。しかし、あるはずみで崩壊してしまう危険性をはらんでもいる。みながそのシステムのなかで生きた存在でなければ、常に生み出すことをしていなければ、あちこちで硬直化して最後には崩壊してしまう。知の世界においても硬直化が起こっているのではないだろうか。確かにこれまで先哲らが築いてきた素晴らしいものやことが、我々の住む世界に繁栄をもたらしてきた。ところが、今では専門家といわれている人でも、専門分野のなかの一部分だけしか知らないという状況が生まれつつある。なにも超人的に知らなければならないと主張しているのではない。知見や知識の蓄積は、我々をその量のなかに埋没させる方向に導いているのではないだろうか。以前はそれほど深く細分化されていなかったため、領域を把握することが可能であった。しかし、次第に深められ、それと引き替えに細分化されてしまった。知の全体像をだれも知ることができないし、そうすることを重要だとも思いもしないことが危機ではないだろうか。対象を限定して、複雑化したローカル性について論じることはどんな理解と意味があるのだろうか。そもそもローカル性に通じていても生き残れる時代ではないようになってきていると思う。我々が成すべきは知識の蓄積や分析ではなく、人間活動の一番尊い、知恵の行為であるはずだ。把握や語ることは本来は分けて考えることによるのではなく、眺めることをもととしてあったはずだ。我々の進むべき道は、そして生き残る場所はどこにあるのかを解き明かすための一つの提案は、自分を動的な状態にした上で、動的システムを創り上げる一員になることであると思う。

2.動的なシステムとは(静的システムから動的なシステムへ)

 我々の生きている環境は多種多様な因子が相互に作用してネットワークをつくり、階層を構築して生態系を形作っている。我々自身である生体は、外部から栄養分を摂取し、生体内の様々な動的システムを駆動し、排泄することを行っている。さらに生体内には免疫反応、血液凝固反応といった動的ネットワークが存在する。遺伝子を眺めてみても複製や変異といった動的な変動が認められる。このように動的なシステムは遺伝子・細胞・生物・社会と至る所に存在する。そして繁栄と滅びを繰り返している。これまで、このようなシステムを理解するときのアプローチの仕方は、見知できる現象を単純な部分へと分解し、それらの重ね合わせで全体の振る舞いを述べていくというものであった。この過程には選択・限定という巧妙な操作が行われていた。これはシステムの自然な状態を表したものではなく、人工的に制御された状態を表したものである。分けて考えることでは捨てる事柄が多すぎるのである。それに我々が見ている現象が必ずしも実体とは言えないであろう。”生きている”システムは常に動いており、実体をつかもうとするよりも関係で理解することの方が有効なのではないだろうか。それほどダイナミクスは複雑であり要素還元的アプローチでは太刀打ちできないものなのだと思う。DNAがすべてを決めているということで終わっている思考なんて、無邪気で意味のないことであろう。 

3.動的なシステムをつくる

 個体が集まると相互に作用しあって、時間と空間にわたる様々な変遷が起こる。どのような状態から出発しても、自然と複雑で動的なシステムへと進化していく。そのシステムを定常状態にするためには外部からの注入と排出が重要になってくる。個体自身に動的要因はあるのだろうか。システムの一例として人間のつくる組織について考えてみると、それは最も原始的な欲求のようなものではないだろうか。組織の中でも大学の研究室を例にとって考えてみると、個体は知的欲求に従って興味の領域に集まっているように見える。自ら研究室を選び、自らを楽しませながら粘り強く研究を続けている。つまり、自らを動的なる存在にまで高めていると見ることができる。自分を鍛えて、しっかりとした自分というものを内側に持っている状態を保とうとする。その上で語り合い(個体間の相互作用)が始まる。余談になるが、動的であるためには頭が良すぎないように心がけなければならないと思う。ディープブルーというコンピュータは確かに相手を絞りに絞り込み、直観に計算の量で勝った。しかし、絞り込みは相手が決まっているときには有効な方法だが、他の相手には適応できないので最終的には崩壊してしまう。危ういものを自分の中につくってはいけない。分別過ぎれば大事は成し難しである。だれしも経験や体験を積んでくると、それにとらわれてしまうようになり、新しい考えが途絶えがちになってしまう。そんなときは完全に捨てることが必要なのかもしれない。頭が回る人を見るといつもうらやましい気持ちがする。彼らはどのように訓練しているのだろうか。多くの人が潜在意識下での思考の必要性について述べている。また、動き回るときに思い付くという人もいる。なにか秘密があるのかもしれない。

 背伸びをして動的であろうとしている個体が語り合うと、新しいことが生み出されてそれが形を持ってくるようになる。いくつもの個体の相互作用が発生することは好ましいことであろう。好ましい状態を妨げるものに、従来からあるものへの強固な刷り込みがあげられる。もちろん刷り込みには効用もあるが危険性も大いにある。それはその見方や境地に至る過程の基礎からの積み上げを共有せずに信じてしまうことが起こるからである。例えばタンパク質を材料としてみるということを刷り込まれてしまうと、そこからしか考えが出てこないということもある。生命が高分子の形をとった偶然性と必然性には一生目を向けることがないかもしれない。この刷り込みは、国・家庭・学校・大学・大学研究室・企業・学会においても起こっている。同じように方便やたとえにも効用と危険性があることは明かである。成功体験も時にはセルフ・イミテーションの行為に人を引き込んでしまう。

4.研究対象としての動的なシステム

 動的なシステムを眺め、動的なシステムをデザインし、実際につくりあげることが究極の目標である。(私自身としてはそれにつながるような研究を行っているつもりである。多少、無理はあるとは思うが。)今の自分には高分子研究全体を眺めることは難しいが、敢えて例をあげるとすれば、生体系への材料の適合化から様々なものが生まれている。流れのあるシステムでは、動的な秩序が自己組織されることを考えに入れた研究が始まっている。物質内部の動的システムとしての構造化の意味を自己組織化過程とあわせて考えることや、高分子合成反応における動的システムを見出して、それを利用することに興味を覚える。

 自分だけで優れた研究だということより、その意義と新しさとオリジナリティとを説明できるようにならなければならない。新しいことは理論さえない、論理的に説明できないことも多い。批判にめげず、気概をもって取り組みたい。他者のそのような研究にも理解を示し、批判もするし、意図をくみとる努力もしたいと思う。

5.これから

 繁栄する領域にどっぷりと浸かっていて多様性を持っていないと繁栄の次に来る崩壊につきあうことになる。いずれにせよ、変化に備えておくことを心がけたい。地図上の面白いところの中に入り、三昧して再び地図を眺める地点まで戻ってくる。必ず戻ってこなければならない。戻ってくるときには太古の神々のように何かを生み出すことを伴わなければならない。いくら知恵がついたとはいえ、ヒトは生き物以上でもないし、以下でもないということは肝に銘じておくべきだろう。はたして、滅びるときは潔く散るか、しがみつくか、それもまた一興か。